EveryDaySunday’s blog

カナダ移住者の退職後の呑気な生活

Day 27になりやっと訪れる最後であるPrince Edward Islandに到着

旅を始めてやっと最後の州であるPrince Edward Islandに到着した。British Columbiaを出てAlberta, Saskachewan, Manitoba, Ontario, Quebec, New Branswick, Nova Scotia, Newfoundlandと訪れ最後はここにしたのは他でもない気候の問題で、ひと月早過ぎた旅行だとつくづく思っている。今日もこの島と本土を繋いでいるConfederaton Bridgeと言う橋を渡り終わるとみぞれが降りだした。Charlottotownに着いた頃には雨に替わっていた。明日明後日と晴れる予定なので快適な散策が可能だと信じる。橋の上でもそうだったけど今日は北風がかなり強く感じられる。橋の制限速度が80㎞だったのでそんなには悪くななかったのであろう。Newfoundlandではフェリーが悪天候で止まってしまう期間が長くなると食料が底をつく可能性があるので大変らしい。同様にこの島でも嵐が続くと同じく食料品が枯渇するかもしれないと心配されている。上記の制限速度は可変式で最高は80㎞で横風の強さに応じて制限速度を下げるらしい。

今日までいたNew Brunswickで道路停止表示がこうなっていた。

説明は必要なしと思うが、一応「止まれ」は英語で”STOP"でフランス語では”ARRET"と表示されていた。Quebec州は英語表記をすると違法なので”ARRET"だけである。因みにフランス本国では”STOP"なんだけどね。確かにこのNew Brunswick州はあらゆる表示が2か国語表記になっていた。たくさんのAcadian達が住んでいるからだろう。同じくPrince Edward Islandにも彼らは住んでいるけど標識は英語のみだな。政治的な物だろう。

このPrince Edward Island, Charlottotownには2泊して島中を散策する予定なので宿泊は2泊することに決めていた。ホテルの入ってから受付の人に5月1日からPrince Edward Island政府の製作で日本でいう「Go To」キャンペーンと同じくホテルに2泊すると観光関係に$100使えるGift Certificateをもらった。街に出て食事を考えていたのでめちゃくちゃお得感がある日になった。

2泊以上の滞在だともっともらえるらしい。

好きな街は秋葉原だった

今週のお題「好きな街」

好きだった秋葉原には行きつけのお店が数多くあった。オーディオの部品特に特殊な真空管などを置いてある店があちらこちらにあったな。以前よく言っていた建物はレストランが入った建物に立て替えれれたか、内部だけが替わったかだと思う。最近は知人と食事に何度か行く機会ができた。昔は青果市場が駅を出ると右にあって2階にある定食屋でカツ丼をよく食べに寄った。市場が無くなったのでカツ丼が食べられなくなった。最近は食事に行くくらいであまり行かなくなったな。昔の電化ヲタクのメッカが違うヲタクのメッカになったのが残念だ。

Day 26はSaint JohnからMiramichiへ雨の中を移動

朝はSaint Johnいのダウンタウンを車窓から散策してその後Miramichiまで移動した。最初は曇りだったが途中から土砂降りで結構運転に苦労した。以前立ち寄ったFrederictonは西から東へ抜けたが、今回は南から北へと移動した。橋を渡ると道路がぐるぐる巡り非常に運転に苦労した。GPSのナビを使っていてもまともな道路を表示できないので結局は道路標識に頼るしかなかった。およそ2時間の移動だったが途中二分の一は新しく舗装を施した道路で非常に走り易かった。しかし途中から冬で傷んだ穴だらけの道に閉口した。

New Brunswickではスーパーでビールとワインが買える。昨晩飲んだビールのラベルにパグ犬種の絵があったので息子に写真を送った。息子の彼女がパグを買っているのでビールが欲しいと言っていると聞いたので、朝8時半に昨日買ったスーパーに行ってみた。昨日買った時のレジの若い女の子が他の人を呼んで私のビールのレジを済ませた。不思議に思って「若すぎるの?」と聞くと、19歳にならないとビール販売のレジが打てないと教えてくれた。そんなことを聞いていたので、今朝早くてもビールを変える事をレジの人に確認してから購入した。私達のBritish Columbia州では朝11時以降でないと酒類販売は始められない。数年前に行ったハワイ島で午後10時以降の販売は禁止だった。ところが、朝お店が開けば帰ると言われて、所変われば規制がめちゃ変わると改めて思った。

今日ホテルの人に冗談で、Miramichi役所が閉まっていたと文句を言ったら、面白い話が聞けた。この町の人は家族との時間を非常に大事にするので夕食は午後5時半~6時が普通らしいし、その代わり朝が早いらしい。ホテルの人はTorontoに住んでいた自分の夕食は午後11時が普通だったと言っていた。これも所変われば文化も違うかな?

この小さな町には自分が世話になっている連邦政府の重要な機関が設置されている。が苦労様です、これからもよろしく。

Day 25でNova ScotiaをでてNew Brunswickに帰る

今日はSaint Johnに宿泊する。途中で寄ったHopewell's Rockだけど季節がら閉まっていた。歩いて入る事ができたが雨の降っていたのでまた今度言う事にした。世界最大の干満差があるらしい。そこからの高速道路への道で雪が降ってきた。気温はあまり低くなないので路面に着いてはいない。綿帽子を付けた森が綺麗だが、あまり見たくはない光景だな。

 

Saint JohnのCarleton Martelloへ行く19世紀までここで15~25人の閉鎖が地域を守っていたらしい極小の要塞だ。

このSaint John市から国境(Maine州)まで車で1時間、そしてBostonまで6時間の距離だそうだ。

パソコンの地図機能を使ってMontrealまでの最短で行ける道はMaine州を横切ると1時間の短縮になる。コロナの検査が必要なので止めておこう。

今日までで11000㎞も走った。まだPrince Edward Island、PEIまで行っていないので走行距離はもっと増えるだろう。

Day 24 Nova Scotia南西半島走破

今朝も昨夜から続いて霧だった。ホテルの2階窓から湾内を望む、が対岸と中州の大岩も見えない

今日の目的地のPubnico村に到着した。およそ1時間少々の走行だった。気付くと今回家から出発して1万キロを超えていた。思えば遠くに来たものだ。

Acadianについて学べる極小博物館にてこの写真は2009年捕獲のロブスターの爪のみ。自分の靴とのツーショット、笑。これで大きさの比較になるか

改めてよく見ると爪の大きさが自分の靴より大きい!

先日訪れたLouisburgの砦の投稿でも書いたようにAcadain(フランス系カナダ人)はイギリス系にひどい目に合っている。東海岸4州(Maine州も含め)多くの人がイギリスとの領地争いの戦いに負け国外退去になり本国、アメリカ合衆国等々散りじりになってしまった歴史がある。たくさんの人は追われた場所に帰り、他には新天地で繁栄したそうだ。よく知られているNew Oreans、Louisiana州は彼らが繁栄した場所の一つである。Cajun料理、French Quater等馴染みのある人も多いと思う。退去の途中の船上でおよそ半数の5000人が亡くなったらしい。これは南東ウクライナ人に対するロシアの樺太送りよりひどい扱いだな。日系カナダ人は大東亜戦争中に内地に強制収容されている。歴史は幾度と繰り返される。

 

Day 23でNova Scotiaの南西半島を移動中

今日はHalifaxで米を調達して、函館の五稜郭の手本となった場所の周りを走り、古い街を走り抜け南下した。着いた場所はPeggy's Coveで1998年9月2日にSwissair 111がおよそ12㎞沖に墜落した場所だ。ここに遺族たちが私設でもうけた慰霊碑がある。ここに来てみたかった。ここに来る前に一応の観光もしておいた。綺麗に丸く削られた岩場で、危険なので歩道から外れないでと看板があった。誰でもわかるはずの危険な場所なはずだが1週間前にTorontoから来た若者が滑り1人死亡しもう一人は助けられたとフェリーで偶然読んだ地方新聞に載っていた。

墜落場所とその他の説明書きが駐車場に置いてある

鎮魂のための慰霊碑で3か所切り抜いているが後ろから海を見るとおよその墜落場所になっていた。

もう一つの碑があったがこれは捜査に携わって頂いた地域やCoast Guardの人達への感謝の碑であった。これに遺族たちの感謝の気持ちが十分に伺える

亡くなられた229名のご冥福をお祈りいたします。この様な事故が起こらない様に願います。

Day 22でも本土に着いていなかった

昨日フェリーでNorth Sydneyに着いて本土だと思ったらCape Briton Islandと言う島だった。一応道路を本土とつないであるので本土の様なものだ。

今朝、Louisbourgの砦に観光に行った。1700年代に栄えていたフランス領地だった場所を2回にわたってイギリス軍より破壊された町を20%だけ復元した歴史的観光地だ。話を聞いているとロシアによるウクライナ侵略と同じ様な事がここでも起こったのかと残念に思う。説明によると建物はかなり粉々にされたらしい。ところがフランス人気質で町の様子の細かい資料を1部は総督が管理し、60人の兵隊が1部を使用しもう1部は本国に送ってあった物を使って復元で来たらしい。復元したのはカナダ公園局で現在は公園になっている。

クロックタワーと呼ばれている建物は公共施設が入っていた。左の奥には牢屋が3か所設置されていた。

時計台の下には教会もある。

カトリック教会のため写真には写っていないけど懺悔室も完備されている。

町を砲台がある場所から望む。相当な大きさの復元である

繁華街であったであろう海岸通り。中央の白い看板にはMagazin Generalとあり雑貨屋だった。置いてある樽だけどCognacでなくRum酒だと教えてもらった。